2024/02/10 10:13



楽しまなきゃもったいない。

そんな事は当たり前の事だろう。いやそう思ってる人が大多数なのではないだろうか。


だがそれをホントに楽しめているかと言うとこれまた疑問な時がある。


ここで自分が言いたいのは失敗もエラーもまとめて大切に、大袈裟にいうならば愛して欲しいということ。



嬉しくもコーヒーに魅力されてドップリとこの世界にハマってくれる人が大多数いる。

でもたまに耳にする『評価と比較』。

あれは美味しくない、不味かった。

あの店はダメだった。

あそこは素晴らしい。

あっちよりこっちの方がいい店だ。


こういった言葉が聞こえてくると楽しめているのかなと少し寂しい気持ちになる。


検証する、比較する、自分の物差しで自分以外のものを何か比較するのはコーヒーを楽しんでいるのではなく、自分の知識のなかでの評価をすることを楽しむことになってしまっているような気がするからだ。



これは自分にも当てはまる。

何か自分とのギャップを感じて首を傾げたくなる瞬間がある。

自分が作り上げるものならそこからトライアンドエラーを気が済むまで繰り返せばいい。

でも誰かが作り上げたものであるならその行為は野暮な行為である気がする。


自分の正義は誰かの悪であり。多勢に無勢とも限らないのが嗜好の世界なはずだからだ。


少々話が逸れてしまったが、そのギャップは自分とは違う世界観であったり想いであったりする。


それに首を傾げず想像して楽しむのもまた良いのではないだろうか。



そして自分自身ののトライアンドエラーのエラーも大切にして欲しい。


それは失敗は成功の元だからだけではない。

もちろん失敗の先に見つかる自分の『正解』もあるだろう。


でもそのトライから生まれた失敗も自分が一生懸命作り出したものである。

角度を変えれば素晴らしいものになるかもしれない。

そしてその時間はかけがえのないものなはず。


そうなれたらもっともっと楽しくなれるんじゃないか、なんて思ったりもしながら。。。




先日フィルムカメラの操作を誤って中のフィルムを切ってしまった。

落胆しながらカメラ屋さんでフィルムを救出してもらってできる限りの現像をしてもらったのだが、失敗したと思った切れたフィルムの写真は思った以上に自分のお気に入りだった。


ほとんど写っていない他人からみたらしょうもない写真かもしれないが、失敗をしたせいか何故か撮った時の情景と記憶が鮮明に残った写真で他人からの失敗の評価は自分にとっての良い写真になった。


これもまたエラーを大切にできていることなのかもしれない。