2025/02/27 20:18




そこに人がいたとする。
身なりや行動、そして言動によってそこの人がどんな人なのかを想像し細分化する。いや決めつけて枠にはめると言った方が正しいのかもしれない。
人は理解したいという追求や探究心があるせいなのか様々なものを分類化していく。
そしてそれが大分類、中分類、小分類となってどんどん細分化されていき、それらの傾向が分析されていく。

最近まで話題だったものだとmbti診断などもそうであろう。昔からあるものだと血液型や星座などだろうか。
データが増えれば増えるほど統計が確固たるものに近づき枠が固くなっていく。
それが話題となり初めて会う人に『君ってこういう所あるでしょ。』なんて言われたりすると些か居心地が悪い。

人と話しているのにまるでAiと話しているようだ。
初対面の自分を頭のいい誰かが分析した統計や傾向のデータであたかも自分を前から知っているかのように話してくる。そして占いかのように『こういうのが向いてる』『こっちの方がいい』『これは相性が悪い』などと判断されるのだ。
更には枠に当てはまらないとイレギュラーとして腫れ物扱いをしてくる人までいるわけだ。

決して間違っているとは思わない。
僕より遥かに頭がよく偉大な人達が積み上げた膨大なデータだ。合致することも多々ある。
だがその枠のせいで上手くいかなくなってしまった事も確実に存在するような気がしてならない。
そんな情報がなければニュートラルに判断できてもっと上手くいってたのではないか?相手を細分化してるのではなく自分が枠にとらわれて差別的になってるのではないのか?時々疑問になるのである。

コーヒーにも同じ事がいえる。
浅煎りはこんな味、深煎りはこんな味という枠組みが存在していて、年配層になると焙煎度合いではなくブラジルはこう、マンデリンはこれ、なんて考え方も多くある。年代によってコーヒーの時代背景があるのがよくわかる。
少し前までこの国はこの焙煎度合いでこういう味なんていう枠があったのだろう。今となっては更に細分化されて国、品種、精選方法、焙煎度などでより細かく枠が分かれている。

そんな自分も10年以上コーヒーに触れた生活をしているせいか飲む前から『これはこういうものだろう』なんて決めつけてしまうことが多々ある。
積み上げてきた学んだものや経験から無意識的にそう取り組んでしまい、イレギュラーなコーヒーに出会う度に大きく反省をする。
これはこんな味だと思ったのにこういう素晴らしいフレーバーもあるのか、こういう傾向だと思ったのにとニュートラルに目の前のコーヒーに向き合えてなかった事が恥ずかしくなる時もある。

傾向や枠組みがあるからこそイレギュラーが目立つので新しい発見や驚きがあるともとれるが、その枠組みのせいで手をつけずに思い込んで終わってしまっている事も多くあるのではないかと時折感じてしまう。

コーヒー豆だけでなく器具にも同じことを最近感じた。自分がコーヒーの世界に足を踏み入れてからとんでもない数のコーヒー器具たちが生まれてきている。
そうするとどうしても似た物も出てきたりするのだが思い込みや決めつけでその器具に手を出さない事も増えてきた。
しかしコーヒー豆を栽培している農園さん同様、造り手さんは何かの意図やストーリーがあるが故にこうして形になり市場に出てきているのであるはずだ。
伝える側の仕事に就いているのだから、知識や経験を積み重ねつつもニュートラルな探究心で目の前のものに向き合っていきたい。


ここに書き記すことにより自分が器具を買い漁ることを正当化できてる気がしてきているのだから何ともずるいものだ。