2025/01/24 21:14



何かを始めれば何か障害にぶつかるものだ。

それは激坂なのか、神社にあるような驚異的な階段なのか、そそり立つ壁なのか。


乗り越えた先が良い結果だとは限らない。

努力に見合った結果にならないかもしれないし、もしくはそこで挫けて終わってしまうかもしれない。

『必ず』という約束がなければ人とは不安になるものである。

そうするとないはずの道が突如現れる。

一本道だったはずの目の前には現れた『Y字路』。



【やる】【やらない】



シンプルな答えな故にインパクトも強く立ち止まってしまう。

辞めるのは簡単だ。少し前まではそんな声が多く聞こえた。

今は辞めるのも勇気。辞めることは悪じゃない。そういう声も半数になったのでは無いだろうか。


壊れるくらいなら辞めればいい。

確かにそうである。だが多くの人がかけてくれるその優しそうな言葉はある種の『無責任』だということを忘れてはいけない。

辞めた後の事なんて誰も真剣に考えていない。

言葉でケアはしてくれる事もあるが『頑張ってね』『無理なくね』という言葉はあなたの未来を見つけてくれるわけではない。

励ましの言葉なんてその場しのぎでしかなく結局は自分が見つけて自分が突き進むしかない。


あなたを一番に考えて動いてくれる人なんてひと握りもいない。それが他の人、つまりは『他人』なのだ。



少し辛辣な書き方だったかもしれない。

だが自分がフッと力を抜いて誰かに支えてもらえるような世の中ではなくなってしまうように思う。

金八先生の『人』という字の授業が綺麗事に感じるようになってきているわけだ。


誰かに支えてもらって世の中を生きているのは間違いないだろう。だが自分が片足でもいい、自分の力でフラフラでもいいからどうにか立っていないと倒れそうな時、あなたを支えて立たせようとはして貰えない。良くて支えてゆっくり横に寝かされて終わってしまうくらいだろう。


最後に傷つくのは自分なのを忘れてはいけない。


さて『Y字路』の話しに戻るが、片側は『やる』もう片方は『やらない』というシンプルなものだが、そのシンプルさに多くの感情が詰まっている。

続ける事での結果の不安、自分の才能の有無。

辞めることによる積み上げた努力の変化、優しい言葉とは裏腹の周りからの評価。


ぐちゃぐちゃになった下書きの紙たちが自分の周りに散らばってるかのように収まりの悪い心情になる。


だがどちらも正解でどちらも不正解であり、どちらを選んでも正解にできるのは他人ではなく紛れもない『自分』なのだ。


Y字の先がどうなっているかなんて進まなきゃわからないし、その先の自分の決断で当然変わってくる。

その前にそのY字の真ん中には必ず存在する『三角地帯』があるはずだ。どちらの決断をして進んでも横を通り過ぎる三角地帯。表を通るか裏を通るか、しかし見える景色はだいぶ違うはずである。


三角地帯にあるものは人それぞれだろう、だがY字の先に進むのに大事な何かがそこに鎮座しているのは間違いない。遠い遠いY字の先を見て途方に暮れるのも必要なのかもしれないが灯台下暗し、まずは目の前のY字の真ん中にある三角地帯には何か大きなヒントがあるのではないだろうか。



人生経験短い僕の経験から言えることは

辞めれば努力したという結果はついてくるが何か新しい事を始めなければならない。新しく0から1を生み出すのはそれはもう大変なものだ。

過去努力した事があるというものを心の糧に新しい努力を積上げていく。

逆に続ける事を選べば今自分が迎えてる苦難の続きが始まる。コンテニューを繰り返して苛立ってるゲームの様なものだろうか。

次のステージに何があるかわからない。

むしろまだ何も手に入らないかもしれない。

だが間違いなく言えるのは続けない限り手には入らないのだ。



どちらを選んでも『あなた』であることは間違いない。

壊れると判断してやめるか、しなっていけそうなら続けてみるか。無責任な他人の言葉に振り回されすぎず三角地帯にある『己』を表と裏から観察してみたい。


観察なんて頭を使うのだからコーヒーでも飲んで焦らず、でも見落とさないように自分を大事にしながら見てみるのも悪くないのではないだろうか?